家づくりラプソディー

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延床23坪の注文住宅を建てた経緯や暮らしの紹介。理屈っぽい話題多めです

なぜ注文住宅を建てることにしたか:(4)建売住宅が気に入らない問題

 前回の記事では、建築会社の違いによる、コストを軸にした建売住宅の分類を書きました。
 この記事では、その建売住宅が気に入らなかったという事について書きます。
 
(建売住宅に住む方や、購入を検討されている方が気を悪くされたらすみません。価値観は人それぞれであり、わが家の価値観に建売はそぐわなかったというだけの事です。実際、記事内で触れているパワービルダーと呼ばれる会社の住宅販売数や業績の拡大は特筆に値するもので、これは多くの人の需要に応えていることの証左だと思います。)
 

 パワービルダーの物件をいくつも内覧

 というわけで、いわゆるパワービルダーによって建てられた物件を見学してまわりました。
 印象としては、期待以上でも以下でもなく、延床面積に応じた想像通りのつくりで、どれも特に大差は感じませんでした。
 1階にリビングと廊下と水回りがあって、2階に個室があって、梯子式の小屋裏収納がある。
 もしくは1階に駐車場と廊下と納戸があって、2階にリビングと水回りがあって、3階に個室がある。
 どれだけ狭い家でも、各部屋は必ず廊下と開き戸で隔てられている。
 このプランが基本となって、延床面積の表記に応じて各部屋が拡大縮小されるようなイメージです。
 
 ある日、立地と延床面積が希望を上回る条件の良さで、予算に合致する5000万円強という価格で売り出されている建売住宅がありました。
 延床面積100平米(30坪)の4LDK。
 3分歩けば駅に直通する大通りまで出られ、駅まで歩いても15分。
 
 不動産屋さんも、他の物件を紹介する時よりもやや興奮気味。私が提示していた条件を完全に満たして余りある内容なので、それも大いに理解できます。
 
 内装が出来上がってきたタイミングで、内覧に行ってみました。
 確かに広さは十分に感じる。立地条件も申し分ありません。
 

じゃあ買うの?

 しかし。
 
 一世一代の大きな買い物をするという前提で、「この家が気に入ったか」という目で検討し始めると、気になる部分が次々と出てきました。
 
 外壁は石なのか何なのかよくわからないテイストを模した貼物で、色もデザインも微妙に合ってない雨樋がさらにデザインを害しながら外壁を降りてゆく。
 
 窓は配置を揃えて見栄えを整えようという意図がそもそもなく、建物外形も間取りありきでガタガタ。
 
 内装は新築特有のボンドの匂いが充満し、壁紙の窓枠への巻き込みが微妙に波打ってたり浮いてたりするし、切った張ったの折り込み部分も目立つ。
 
 脱衣室のドアの開口部に洗面台が微妙に飛び出していて収まりが悪い。
 
 LDKに隣接して畳の部屋が用意されているが、和室の意匠を中途半端に取り入れたプラスチック格安建具のセレクトにセンスを疑う…
 
 うーん、パッと見でこれなら、中身は一体どうなっているんだろう…
 たとえば設計上の耐震等級が最高クラスだとしても、本当にその性能が出る施工になっているんだろうか…とまで心配になってきました。

めんどくさい性格

 建売やマンションを上手に買う人は、手放して住み替えることも十分に考慮に入れているので、そもそも一世一代の買い物という捉え方をしていないのかもしれません。
 しかし自分も妻も、持ち物・買い物に関してはある意味情緒的なタイプというか、買い物に自己表現があるタイプというか。買い物をすると、自らのアイデンティティ
 「何を買った、何故買った」
という属性が加えられると思い込んでいる節があるので、社会通念的な損得勘定を超える納得感を求めがちな、非常に面倒な性格なのです。
 
 車にしても同様です。わが家の車は、もう生産されなくなった特殊なタイプのエンジンが載っている、少し古いスポーツスタイルの車なのですが、妻もブツブツ文句を言う割に、適当なコンパクトカーに乗り換えようとすると「自分のこころに関わるものはおいそれと手放すべきではない」と逆に難色を示します(笑)

純粋に買い物として考えた

 不動産屋さんからも
「どうされます?どんどん内覧希望者が入っていて、営業担当の間でも取り合いになりつつあります」
 と少しを感じてきて、少し真面目に考えることにしました。
 
 高い土地なら資産価値も固い。建物の気に入らないところは自分で直すのもいいだろう。冷静に考えて正解なんじゃないか?
 
 その通り、正解だと思う。当初の条件を完全に満たしているし、重箱の隅をつつかなければ、取り立てて悪いというわけではない。例えば知人がこの家に住んでていたら、いい家だね、羨ましいなと素直に言えると思う。
 
 でも、買うのは他人ではなく自分。
 資産価値はひとまず置いておき、単純に自分がものすごく高価な買い物をするのだという観点から、こんな自問自答をしました。
 
問い:
 この家を5000万円で買おうと考えている?
 それは5000万円の買い物をしようとしているということ。
 つまり、この家にはランボルギーニアヴェンタドールに匹敵するほどの価値があると、心の底から思っているのか?
 
答え:
 あー。
 ないです。全くない。
 即答。
 
 ラカンならちょっと考えるけどそれでも怪しい。
 
 
 自分にとって必要かどうかという問題じゃない。
 乗ったことすらないが、アヴェンタドールにはおそらく5000万円の値付けにふさわしい価値があるのだと思う。
 でも、この家に、アヴェンタドールと同等の価値があるとはとても思えない。
 
 例えば、もし自分が何か血迷ってアヴェンタドールを買ったとする。
 妻子にも逃げられるかもしれない。
 「うわー信じられんほど無駄な買い物したなー、誰か高く買い取ってくれないかなー」と後悔する一方で、しかし5000万円のクルマのなんたるかはしっかり堪能するだろう。
 
 そうしている所に、この家を買った人が現れて「同じ値段だから交換しましょう」と言ってきたらどうする?
 
 確 実 に 断 る ね 。
 
 つまり、この家に5000万円の価値は無いと自分で認めているということ。
 
 うん、やめよう。やめやめ。
 
 とまあ、このように脳内で繰り広げたマルクス経済学めいた価値判断が決定的になって、建売を買うのはやめましたとさ。
 
つづく。